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理念


      
    
ж 乙女、イスラエルよ、私は再びあなたを建て直し
  あなたは建て直される
  再び、あなたはタンバリンで身を飾り、
  喜び笑うものたちのおどりの輪に出てゆこう
(エ レミヤ31−4



ж いなご、ばった、食い荒らすいなご、噛み付くいなご、
  私があなたがたの間に送った大軍勢が
  食い尽くした年々を私はあなた方に償おう(ヨエル2−25)




★取り違えてはいけません!よく吟味してください
心理学はあくまでも、自己追求、自己の満たし、自己実現が目標です
心理学は、ヒューマニズム、人間中心の学問です
キリスト教はそれと間反対の、神中心、自己放棄、神の召命を生きることが目標です。
現れた行為は同じように見えますが、まったく正反対の方向が目標です



現状


  もし、あなたの心が沈んでいる、何かどこか、いつもと違う、なんだか心に力がない、仕事もミスをするようになる、家事が億劫だ、人生に張りがない、今まで興味があって楽しいはずだったということも辛くなるというようなことが起きたとき、また体の不調でこれからどうやって生きてゆけばいのだろうとちらりと不安がよぎる時、どうされますか?


たいていの場合は、かかりつけの内科の病院にいかられるでしょう。精神科に行くのは抵抗があっても、心療内科・神経内科ですと
行きやすいかもしれません
しかし、たいていは予約なしで、1時間以上待ち、5分〜10分程度の診察と後は薬の処方で終わります。現在うつ病によく効くとして開発された薬の中には、うつ病の症状だけを報告し、よくなった状態を躁状態の報告としないために、誤って双極U型などの躁鬱病なのに大うつ病に効くSSRIを出してかえって躁転してしまうこともあります
現在薬は厚生労働省と医者と製薬会社との間で色々の関係があり必ずしも大量に出回っている薬が良く効く薬とはかぎりません。よく効く薬も承認されていない場合があります

自由診療をする病院もありますが非常に高額です
いずれにしても、よくならない場合は別の医者に行くこともあるでしょう。ドクターショッピングもはじまります。


 
さて、クリスチャンの場合はどうでしょう。 まず,牧師や伝道師、神父、シスター、長老、霊的姉妹に話すかもしれません。最初は誠実に聞いてくださった方もしだいに、「気の持ちようでしょう、とか、わかりません、祈りましょう」となり、嫌煙されてゆきます。指導者の中には、「どうしてわからないのか、隠された罪があるのか」を疑う人もいます。
あるいははっきりと、あるいは抽象的に、サタンに憑かれているという人もいます。(ちなみに、サタンに憑かれるということはめったにありません。ハリウッド映画の悪影響です)また、せっかくこんなに聞いてあげたのに、解決できないのは自分の信仰が足りないからだと思うようになる人もいて、最後は、聞いているほうが燃え尽きてしまいます


また成育史に不雑な背景があるために教会の言葉につまずいたり、もともと抱えていた問題以外のところで信仰を保つことができなくなってゆき、結局教会から離れてていってしまうようになる人もいます.
教会で「父の愛」を言われても、養育者に問題がある場合、そもそも「父」とか「愛」の概念が歪んでいるので一番基本的な意味さえとり間違ってしまうのです
それで抑うつ傾向にある多くのクリスチャンは神を律法的な怒りの神、あるいは、自分のことなど気にもかけない冷たい存在のお方だと考えて遠ざかってしまうのです


また聖書を読む時も、その律法的な考えで、そのようなところばかりに目が向き否定的なことばかりを考えてなるようになるるのです
たとえば「10人の乙女の話」、「「シロアムの棟が崩れて亡くなった者」の話など「福音」どころか地獄に落ちるという恐ろしい話になってしまいます

あるいはキリスト信仰はあるのに神学理解があっていないために、また霊的見解の相違のために、誤解され信仰がないようにうけとられてしまいます。


これはキリスト信仰を捨てたのでなく、キリスト信仰に対する理解が足りなかったり、歪められたせいです。日本人口の1%がクリスチャン、しかし、洗礼を受け教会から離れていった人は3%、礼拝出席者は0.2%にまでおちこんでしまっています。


教会では、こうなるとお手上げで「病院に行きなさい」といいますが上述のとおりです.
精神科では、教会に行っておかしくなるのだから教会に行くのをやめなさいとなるのです
私達は病院の治療を否定しません、薬も否定しません。しかし現に増えつあるクリスチャンのうつ状態に今の現状では回復して行くことが困難なのです
このような時どうしたらよいのでしょう


心理学の心理療法と
聖書の御言葉の力と聖霊様による祈りと癒し
  一時期、教会の中でロジャーズや交流分析などのカウンセリングがブームになりましたしかし効果がなく下火になっています。認知行動療法もありますが、生活の中でひとつひとつをあげ、肯定的に考えるということは現実にはかなり無理があります。プラス思考でやっている人もうつにはなるのです。肯定的に考えるのはよいことですが、それがうつ状態の予防になるとは言えないのです。

傾聴してもらうだけでは解決にならないのです。本人の罪の告白の必要がいるのです
行為だけでなく、神から離れていってしまっている自分ののやり方で人生を生き抜こうとする罪に気づき、神との和解をしなければいけません
これは厳しい事ですが、神がご自分のもとにあなたを連れ戻す方法なのです
クリスチャンになって霊は新しくされましたが、魂・(知・情・意)・心とか精神とか呼ばれるところは新しくなっていないのです
まだ幼児のままなのです(Tコリ13−11、14−20)


特にゆとり教育を受けて社会に出てきた人たちの中に「新型うつ」というものが増えています。この場合受容だけでは回復しません。
神に従うか、自分の考えを選ぶのか、対決を迫られます。



多く
クリスチャンが間違っているのは、心理学の人間論と聖書の人間論が基本的に違っていることに気がついていないことです。心理学の人間論は性善・悪論色々ですが、聖書では2章5まで性善質ですが、それ以後からは性悪質です。ですから一般の心理学を基本的にクリスチャンの心のあり方を変えて行く事はできません。


第一、一般心理学の人格論には「霊」の存在そのものがありません。フランクルのように人間ではないなにかスピリチュァルなものを考えている学者もいますが、聖書の霊とは違います。ですから一般心理学がそのままクリスチャンに適応することはできません。まず、クリスチャンが学びなおすのはこの世的な考え方を聖書の考え方に刷新する事です。
パウロの言うように心の一新が必要なのです((ローマ12−2)


ある人達は聖書の言う魂の部分を新しくするために、認知療法の肯定的考え方を取り入れようとしたり、ポジティブシンキングを取り入れていますが、それらは、今の世にあった(経済・文化や風習習慣として形に残った偶像礼拝の要素・実際に三位一体の神でない事を知らない間に拝む事・人間中心主義)社会に適応する考えであって、直接聖書の教えたものとは異なるものが多いのです


あるいは、認知療法など日記を書いてゆく時、否定的考えを肯定的に考えるという欄がありますが、抑うつ的状況になっている人は、肯定的に物事を考える事が難しのですから、結局、肯定的に考えるという欄はそもそも埋める事はできないのです


また聖書のある箇所だけを取り上げて肯定的に自己暗示的に唱えるよう言う人もいます。しかし、聖書はその全体から福音を総合的に理解するものなので、都合のいいように、ある部分だけを切りとり、格言のように使うこと自体は間違っているのです

聖書に書かれてある言葉はロゴスといいますが、それが、自分の霊に響き生きた言葉としてレーマにならなければ実際には、力のあるものにはなりません
そうするとき、人生の考えが変わり、人生がキリストの生き様に近づくのです
生ける命の水はあなたの外にあるのではありません。
生きる力と勇気はあなたのうちにおられる聖霊様から流れて出てくるのです(ヨハネ3章〜4章)(民数記21−17)(ヨハネ7−38)


一般の心理学はそれを唱える学者の一種の宗教です。彼らはほぼ同様にこう言います「人の愛が抑うつを解決する、コミュニケーションが変わることで問題は解決される!」と。確かにうわべはよくなったように見えます。

しかし、聖書では、そうは言っていません!!

  
聖書は

 真理があなたを自由にする(ヨハネ8−32)と言っているのです
  真理とはイエス・キリストそのお方ご自身です

今の多くのクリスチャンがやっている一般心理学を土台としたクリスチャンカウンセリングは心理学と聖書の言葉のすりあわせであり、本当の意味の聖書的カウンセリングではないのです。
聖書的カウンセリングでは、聖霊の導きにより、罪の告白、赦し、自我の業を十字架につけ自我に死ぬ事で、神の愛を体験し、正しい神概念への移行、心の一新、変革がおこります

ある流れのように、癒しを受ける準備をせず、あちこちの聖会で神の器という人に祈ってもらえば治るというのも極端に走りすぎている傾向にあります。
癒しが献金の額に寄るというのも聖書のどこにもありません
何千回も祈らなければ、祈りは聞き入れられない、早天祈祷会や徹夜祈祷会でないと、祈りが聴かれないならば、それは行為義認で信仰義認ではありません
体力、気力、豊富なお金がないといやされないというのは聖書的ではありません


もちろん聖会で奇跡はありますが、サタンのすることは真実と偽りをまぜあわせることです。サタンは巧妙です。聖会に行き、かえって悪魔意識に敏感になり縛られ、本末転倒にもなりかねません
ですから、聖会で、癒しをいただいてもそれを保つ方法を知らなければ再びサタンが、症状を持ってきてさらに悪い状態になるかもしれません。そうなれば治してもらうために聖会に行き続けなければいけなくなります

しかし、よほど時間と経済的余裕がなければ続けることはできません


なんでもサタンのせいにする人もいますがそれも間違っています。サタンの性ではなく、心の一新ができていないために、自分の欲望を自己コントロールしていないために、おこっていることもあります

また神が病いや悲惨を持ってきたのではありません。それもサタンの偽りです。ヨブ記を多くの人は間違えて教え込まされています
神は試練とともに脱出の道も備えてくださっています
(Tコリ10−13)



また現代では奇跡や癒しは起こらないと主張しているグループもありますが、実際に奇跡や癒しは現代でも起きています。これは事実です。死人が生き返ることさえあるのです。
イエスキリストは昨日も今日も変わらないお方です(ヘブル13−8)イエス様は「私を信じるものは私の行なう業より大き業を行なう(ヨハネ14−13)
といわれております。
ですから奇跡がないというのは誤りです


聖会に掛け持ちで行き、別々の人から矛盾する預言をもらったり、神の器と呼ばれる人にばかり頼ることも危険なことです
預言はその意味を聖書的にも理解し、預言とはどういうものかをあらかじめ勉強していないと、かえって預言に踊らされサタンに惑わされることになります


日本はもともと異教の神々の国であり、キリスト教はつい最近入ってきたものです
神道、仏教、儒教の教えが生活のいたるところにあります

そのような複雑な環境を棚に上げ、キリスト教を強要するやり方では、人は、なかなか信用してくれません
極端な偶像礼拝や物品を一気に捨てさせることもキリスト教が嫌煙される理由でもあります


私達は聖会や神の器を否定しません。彼らは熱心ですが、その熱心さゆえに聖書の真理の王道からだんだんとは離れてしまい、ついには律法主義に戻っていってしまうのです


霊的な力を強めて情緒的に健やかでいることは、有名な牧師や伝道者でなければできないことではありません
あなたが神ご自身を体験することによりあなたにも、回復・解放は訪れるのです


あなたの信仰があなたを救うのです(マルコ5−34、10−52・マタイ9−22・ルカ8−48、17−19・18−42)

解放・癒されるコツは今すぐに 自己努力、自我の業を止め、十字架の元に休むことです
解放は実は本当に簡単なことなのです
すでに罪は赦され、神の国の中にいて、祝福はあるのですから
自分の力でもがくことを止めれば、すぐに神の平安を体験することができるのです
難しい理論や方法ではありません
あなたの神にゆだねるという決心、信仰だけで十分です
神は癒そうと思うものを癒し、憐れもうとするものを憐れまれるのです
神の慈しみと憐れみは偉大です
解放・癒し・変革は 人の知恵ではできません
今すぐ自分に死ぬのです


 
 心がけてほしいこと
 今問題があり抑うつ状態であれば、難しいことはできません
神を信じ、必ずよくなることを信じること
希望を持つこと
ただ、短い祈り、賛美、聖書を少し読むことをする、
それからよく休んで下さい
癒しはいつどんな形で起きるかわかりません
あせらない事です
 
神におできにならないことは何一つありません
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